大事なものの「みつかり方」
2011年 06月 12日
−震災− Part 2/4 「偶然の不思議」 大事なものの「見つかり方」

アメリカの作家ポール・オースター(Paul Auster)は、彼自身が体験した、また彼のもとに届いた、「ひどく出来過ぎた、偶然の出来事の実話」に、現実の人生の “組み立てられ方” が説明されている場合もあると考えていらっしゃるようです。
エッセイ集「トゥルー・ストーリーズ」(新潮文庫 柴田元幸 訳)の“訳者あとがき”には、訳者、柴田元幸さんの素晴らしい解説がされています。私が大事だと感じた部分を少しご紹介しておきます。
“インタビューでも、どうしてそんな実話に興味を持つのか?と問われてオースターは、「きっと僕は、『現実の成り立ち方』ともいうべきものに心底魅了されているんだと思う。つまり、物事が実はどうやって起きているのか。人生の出来事がどのように生じるのか。そして、これは僕がいつも感じることなんだが、新聞やテレビでは、さらには小説でも、物事の真相が歪められているんじゃないか。現実が持っている、不思議で、意外な本質に、本当に向き合っていないんじゃないか」と答えている。”
“たとえば小説が「偶然の一致」を安手の仕掛けとして排除してきたことをオースターはかねてから批判している。オースターからすれば、偶然の一致を排除する人々こそ、むしろ現実を正しくみていないのだ。”
ポール・オースター著「トゥルー・ストーリーズ」(新潮文庫 柴田元幸 訳) ”訳者あとがき”より引用

コンフォートクックの仕事も、「偶然の出来事」を大切に進んでいます。「小さな偶然」を大切にしていくと、大事なものが、突然あらわれたりすると、信じているのです。
身近に起きた「小さな偶然」を、ていねいに覚えていくと、満天の星空の「星」と「星」とが導かれるように、つながって「星座の物語」が描かれていく、その美しいこと。
私は、神戸の震災以来、そうしたことを気にしないでは、いられない。
わたしの個人的なはなし
・・・ むかしむかし、コンフォートクック創業の間もない時のこと、私の隣の席で手伝ってくれていたEさん(愛知県)は、その類い希な知性で、なにかと有益な意見をくれました。半年くらいたったある日のこと、普段のなにげない会話のなかで発覚し、“こんなこと、現実にあるの!?”と、ますます「偶然」を大切にすることになった、偶然の出来事について・・・
それより10年前にさかのぼり、神戸の会社に入社した時、当時、たまたま隣に席があって、英語もろくにできない私に(社内の公用語が英語のため右往左往して)、有益な助言をくれたトレーニングのYさんという方がいらっしゃいました。
この入社時に、隣の席だったYさんと、10年後、コンフォートクック創業期に、隣の席で手伝ってくれたEさん、ふたりとも、当時の私にその客観的な視点から、「そのユニークな発想力で仕事を進めていけば、賛同者は必ず現れて、増えていく」とアドバイスをくれ、その後そのとおりになった。
神戸の会社でも、コンフォートクックでも、いずれも「初期」に頂いた、二人のアドバイスに、いまも感謝しております。
ある日、Eさんとのある会話をきっかけに、突然、わかったこと。愛知のEさん、神戸のYさん、ふたりは、中学以来、会っていないとのことだったけれども、「従姉妹」だった。
もっと、むかし、ある夏の日、ミネソタ州セントポールから五大湖に1泊のドライブ旅行にでかけたその同じ日に、日本では、郷里の親友Sが、富士五湖に1泊のドライブ旅行に行っていた。走った距離は、ともに700だった(700マイルと、700キロ)。そして、Sとは、誕生が「7年と16日」違う。そういう巡り合わせらしい。(滞在した湖も、五大湖で一番大きいスペリオル湖と、富士五湖で一番大きい、山中湖だった。)
私が深刻な病気かもしれないと最初に気づいたのは、陶芸家Dだった。Dの作品はメトロポリタンなど世界の著名な美術館に収蔵されており、作品には特別なオーラが漂い、ひと目で虜になる。そのDが「絶対、変!」と言い残し、帰国したイギリスから何度も、何度も、電話をしてきて、大きな病院へ検査に行くことを強く主張し、結果、そうだった。もしあの秋にDと半年ぶりに再会していなければ、事態はもっとひどくなっていただろう。
MRI検査により大きな脳腫瘍が見つかったその3日後、神戸の親友Iが、突然、前触れもなく、電話をくれた。2週間くらいすると、アメリカのOから突然、前触れもなく、電話がかかってきた。
“物理的に距離のある友人”と話すことで(いずれも神戸時代の友人)、あの時、余命の予測もあって、途方に暮れ、深く埋没していく自我のなかに、ぐいーっと、“心のホワイト・スペース”が広がり、客観的に判断し、その時のベストな治療方針を決定していく「救い」となった。IもOも、当時の同僚でしたが、道はそれぞれに別れ、そして、それぞれその時には、病院の知識が豊富になっていた。Iには大局観を、Oにはメイヨークリニックの実際の様子を、そして、陶芸家Dの幼なじみもアメリカのトップクラスの脳外科医となっており、そのセカンドオピニオンをもらった。当時、自分が深刻な病気になったことは、つらくて言えなかったけど、手術の直前に神戸の親友Kに打ち明けたら、Kのクラスメートが優秀な脳外科医になっているとのことで、すぐにつないでもらい、手術方針のセカンドオピニオンも得て、どれほど安心できたことか。そして私は、今日も元気に、いまを生きている。(じつは後年、再発時にも「偶然の不思議」が起きたのですが、これはまだ最近のことすぎて、冷静にはお話しできない。)
“魔法とは、あなた自身を信じること”

1995年1月17日
六甲道のアパートの外にでてみると、あたり一面、倒壊しており、近所のいつも行くお好み焼き屋「文月」のおばあさんが路地に震えて立っていた。すぐ部屋にもどり、綿の入った暖かい羽織をもって戻った。4階のアパートのベランダから見ると、まだ暗いから、商店街の一角から火がでたことがわかる。そして、あちらから、こちらから、小さな火が出始める。この火は、午後には、あたり一体を燃え尽くしていく。
朝、明るくなってから、周囲の状況をみなければと歩き始めると、すぐに、見知らぬおばちゃんが寄ってきて、私の腕をとり、あそこに学生さんが埋まっているから助けてあげてと、倒壊したアパートに引っ張っていかれた。
大きな余震も続き、怖いけど、2階建てのアパートの1階部分がぺちゃんこになっており、とにかく今は1階の高さにある、2階の廊下をとおり、窓から入ってみる。
そのおばちゃんが、すぐに「助っ人」をもう二人連れてきた。家具が邪魔して大きくは捜索できないので、3人でまず、ここを剥がそうと、いま立っている、この足下の床のカーペットをめくり、畳を剥がし、床板を剥がすと、1階の天井板と思われるものが下に見えてきた。その天井板を剥がすと、そこには、学生さんの顔があった。寝ていたら2階が落ちてきた、そのちょうど頭のちかくを、偶然、掘ったことになる。顔があらわれたとき、彼は、顔の前に両手をあわせて、おもわず、私たちを拝んでくれた。「言葉」は、あまりのことで、でないんです。そして、不思議にも、挟まれておらず、すぐに肩から引きずりだせた。
3人の足下に「穴」を開けたら、そこが大正解だった。次に隣室へ、そして、別な建物へ。いつも掘ったところが大正解だった。堀直しは、必要なかった。
最後は、もうだいぶ時間がたっていて、火事が勢いを増して燃え広がったエリアの、倒壊した土壁づくりの古い、二階建ての大きな長屋造りの建物にいきついた。そのころになると、火は、あたり一体を焼き尽くしており、すぐ隣に建つ、モルタル壁の比較的新しい一軒家が、火を食い止め、この土壁の倒壊した建物への延焼を防いでいたけど、すぐそこに迫った火が、いつ、このモルタル壁を乗り越えて延焼してくるかと、怖かった。空にはヘリが飛んでおり、火災の煙や、煤が、ヘリの起こす風にあおられてか、どんどんこちらに降ってくる。そのヘリが邪魔で、うらめしかった。
終わった時は、みんな顔が煤で黒かった。でも顔を洗う水もないし、飲む水もない。JR六甲道の駅は、ぺしゃんこになっていた。
その夜見た夢は、白黒で、龍が大阪湾の上空を飛びまわるものだった。記憶がしっかりしているのは、このあたりまで。それから半年間の記憶はあいまいで、出来事の記憶というよりは、時々の感情の記憶だけが今も定着している。ずいぶんお酒も飲んだ。
1年半後、1996年の初夏、急な事情で愛知県に戻らなければならなくなり会社を辞め引っ越すことになった。引っ越しの前夜、トラックがきて荷の積み込みを終えると、ひとりで散歩してみることにした。急な事情で愛知県に戻るために、会社も辞め、神戸の親友たちと離れていくその時期(震災体験を共有する戦友です!)、心は、ぐちゃぐちゃだった。
1年半前の震災の日に、あたり一体が火事で焼けてしまった商店街のストリート両脇には、急場しのぎの建物で徐々にいろんなお店の営業が始まっていた。その時期になると、みんなに復興の勢いがついてきていて、1週間で商店街の様子が変わっていく。以前は魚屋さんがあった辺りだけど、ひとつ筋を入ったところに、今日まで気づかなかった「中華料理店」をみつけて、暖簾をくぐると、「はえーい」と元気のよい声。はじめての声じゃなく、聞き覚えのある声!
だいぶ体重を落とされ細身になり、若返った印象の、アパート隣の食堂のおやじさんが再開した店だった。つい最近、ほんの1週間ほど前に開店したとのこと。神戸を去る前夜に、偶然、再会できたのだけれど、おかあさんもご無事、ご家族みんなご無事であるとわかり、この再会に感謝し、引っ越しの夜は、スペシャル!な、爽やかな夜になった。
あと書くのは、
Part 3/4 記憶力に自信があっても「記憶がなくなる時期」
Part 4/4 健康について「半年後にご用心」
の2つです。
“魔法とは、あなた自身を信じること”
あなたが気になる「偶然の不思議」を見つけられたら、その偶然は、なにか大事なことかもしれません。
偶然の発見は、「守られている」と実感する時。
10年という歳月をへて、今はつらくても、「偶然の発見」は、未来のあなたを美しい物語へと紡いでいくのだと信じています。
実はこの1週間、突然、10年ぶりに、陶芸家Dから頻繁に連絡が入るようになっている。なにか大きな転機がくる予感・・ もちろん、いい意味で!


アメリカの作家ポール・オースター(Paul Auster)は、彼自身が体験した、また彼のもとに届いた、「ひどく出来過ぎた、偶然の出来事の実話」に、現実の人生の “組み立てられ方” が説明されている場合もあると考えていらっしゃるようです。
エッセイ集「トゥルー・ストーリーズ」(新潮文庫 柴田元幸 訳)の“訳者あとがき”には、訳者、柴田元幸さんの素晴らしい解説がされています。私が大事だと感じた部分を少しご紹介しておきます。
“インタビューでも、どうしてそんな実話に興味を持つのか?と問われてオースターは、「きっと僕は、『現実の成り立ち方』ともいうべきものに心底魅了されているんだと思う。つまり、物事が実はどうやって起きているのか。人生の出来事がどのように生じるのか。そして、これは僕がいつも感じることなんだが、新聞やテレビでは、さらには小説でも、物事の真相が歪められているんじゃないか。現実が持っている、不思議で、意外な本質に、本当に向き合っていないんじゃないか」と答えている。”
“たとえば小説が「偶然の一致」を安手の仕掛けとして排除してきたことをオースターはかねてから批判している。オースターからすれば、偶然の一致を排除する人々こそ、むしろ現実を正しくみていないのだ。”
ポール・オースター著「トゥルー・ストーリーズ」(新潮文庫 柴田元幸 訳) ”訳者あとがき”より引用

コンフォートクックの仕事も、「偶然の出来事」を大切に進んでいます。「小さな偶然」を大切にしていくと、大事なものが、突然あらわれたりすると、信じているのです。
身近に起きた「小さな偶然」を、ていねいに覚えていくと、満天の星空の「星」と「星」とが導かれるように、つながって「星座の物語」が描かれていく、その美しいこと。
私は、神戸の震災以来、そうしたことを気にしないでは、いられない。
わたしの個人的なはなし
・・・ むかしむかし、コンフォートクック創業の間もない時のこと、私の隣の席で手伝ってくれていたEさん(愛知県)は、その類い希な知性で、なにかと有益な意見をくれました。半年くらいたったある日のこと、普段のなにげない会話のなかで発覚し、“こんなこと、現実にあるの!?”と、ますます「偶然」を大切にすることになった、偶然の出来事について・・・
それより10年前にさかのぼり、神戸の会社に入社した時、当時、たまたま隣に席があって、英語もろくにできない私に(社内の公用語が英語のため右往左往して)、有益な助言をくれたトレーニングのYさんという方がいらっしゃいました。
この入社時に、隣の席だったYさんと、10年後、コンフォートクック創業期に、隣の席で手伝ってくれたEさん、ふたりとも、当時の私にその客観的な視点から、「そのユニークな発想力で仕事を進めていけば、賛同者は必ず現れて、増えていく」とアドバイスをくれ、その後そのとおりになった。
神戸の会社でも、コンフォートクックでも、いずれも「初期」に頂いた、二人のアドバイスに、いまも感謝しております。
ある日、Eさんとのある会話をきっかけに、突然、わかったこと。愛知のEさん、神戸のYさん、ふたりは、中学以来、会っていないとのことだったけれども、「従姉妹」だった。
もっと、むかし、ある夏の日、ミネソタ州セントポールから五大湖に1泊のドライブ旅行にでかけたその同じ日に、日本では、郷里の親友Sが、富士五湖に1泊のドライブ旅行に行っていた。走った距離は、ともに700だった(700マイルと、700キロ)。そして、Sとは、誕生が「7年と16日」違う。そういう巡り合わせらしい。(滞在した湖も、五大湖で一番大きいスペリオル湖と、富士五湖で一番大きい、山中湖だった。)
私が深刻な病気かもしれないと最初に気づいたのは、陶芸家Dだった。Dの作品はメトロポリタンなど世界の著名な美術館に収蔵されており、作品には特別なオーラが漂い、ひと目で虜になる。そのDが「絶対、変!」と言い残し、帰国したイギリスから何度も、何度も、電話をしてきて、大きな病院へ検査に行くことを強く主張し、結果、そうだった。もしあの秋にDと半年ぶりに再会していなければ、事態はもっとひどくなっていただろう。
MRI検査により大きな脳腫瘍が見つかったその3日後、神戸の親友Iが、突然、前触れもなく、電話をくれた。2週間くらいすると、アメリカのOから突然、前触れもなく、電話がかかってきた。
“物理的に距離のある友人”と話すことで(いずれも神戸時代の友人)、あの時、余命の予測もあって、途方に暮れ、深く埋没していく自我のなかに、ぐいーっと、“心のホワイト・スペース”が広がり、客観的に判断し、その時のベストな治療方針を決定していく「救い」となった。IもOも、当時の同僚でしたが、道はそれぞれに別れ、そして、それぞれその時には、病院の知識が豊富になっていた。Iには大局観を、Oにはメイヨークリニックの実際の様子を、そして、陶芸家Dの幼なじみもアメリカのトップクラスの脳外科医となっており、そのセカンドオピニオンをもらった。当時、自分が深刻な病気になったことは、つらくて言えなかったけど、手術の直前に神戸の親友Kに打ち明けたら、Kのクラスメートが優秀な脳外科医になっているとのことで、すぐにつないでもらい、手術方針のセカンドオピニオンも得て、どれほど安心できたことか。そして私は、今日も元気に、いまを生きている。(じつは後年、再発時にも「偶然の不思議」が起きたのですが、これはまだ最近のことすぎて、冷静にはお話しできない。)
“魔法とは、あなた自身を信じること”

1995年1月17日
六甲道のアパートの外にでてみると、あたり一面、倒壊しており、近所のいつも行くお好み焼き屋「文月」のおばあさんが路地に震えて立っていた。すぐ部屋にもどり、綿の入った暖かい羽織をもって戻った。4階のアパートのベランダから見ると、まだ暗いから、商店街の一角から火がでたことがわかる。そして、あちらから、こちらから、小さな火が出始める。この火は、午後には、あたり一体を燃え尽くしていく。
朝、明るくなってから、周囲の状況をみなければと歩き始めると、すぐに、見知らぬおばちゃんが寄ってきて、私の腕をとり、あそこに学生さんが埋まっているから助けてあげてと、倒壊したアパートに引っ張っていかれた。
大きな余震も続き、怖いけど、2階建てのアパートの1階部分がぺちゃんこになっており、とにかく今は1階の高さにある、2階の廊下をとおり、窓から入ってみる。
そのおばちゃんが、すぐに「助っ人」をもう二人連れてきた。家具が邪魔して大きくは捜索できないので、3人でまず、ここを剥がそうと、いま立っている、この足下の床のカーペットをめくり、畳を剥がし、床板を剥がすと、1階の天井板と思われるものが下に見えてきた。その天井板を剥がすと、そこには、学生さんの顔があった。寝ていたら2階が落ちてきた、そのちょうど頭のちかくを、偶然、掘ったことになる。顔があらわれたとき、彼は、顔の前に両手をあわせて、おもわず、私たちを拝んでくれた。「言葉」は、あまりのことで、でないんです。そして、不思議にも、挟まれておらず、すぐに肩から引きずりだせた。
3人の足下に「穴」を開けたら、そこが大正解だった。次に隣室へ、そして、別な建物へ。いつも掘ったところが大正解だった。堀直しは、必要なかった。
最後は、もうだいぶ時間がたっていて、火事が勢いを増して燃え広がったエリアの、倒壊した土壁づくりの古い、二階建ての大きな長屋造りの建物にいきついた。そのころになると、火は、あたり一体を焼き尽くしており、すぐ隣に建つ、モルタル壁の比較的新しい一軒家が、火を食い止め、この土壁の倒壊した建物への延焼を防いでいたけど、すぐそこに迫った火が、いつ、このモルタル壁を乗り越えて延焼してくるかと、怖かった。空にはヘリが飛んでおり、火災の煙や、煤が、ヘリの起こす風にあおられてか、どんどんこちらに降ってくる。そのヘリが邪魔で、うらめしかった。
終わった時は、みんな顔が煤で黒かった。でも顔を洗う水もないし、飲む水もない。JR六甲道の駅は、ぺしゃんこになっていた。
その夜見た夢は、白黒で、龍が大阪湾の上空を飛びまわるものだった。記憶がしっかりしているのは、このあたりまで。それから半年間の記憶はあいまいで、出来事の記憶というよりは、時々の感情の記憶だけが今も定着している。ずいぶんお酒も飲んだ。
1年半後、1996年の初夏、急な事情で愛知県に戻らなければならなくなり会社を辞め引っ越すことになった。引っ越しの前夜、トラックがきて荷の積み込みを終えると、ひとりで散歩してみることにした。急な事情で愛知県に戻るために、会社も辞め、神戸の親友たちと離れていくその時期(震災体験を共有する戦友です!)、心は、ぐちゃぐちゃだった。
1年半前の震災の日に、あたり一体が火事で焼けてしまった商店街のストリート両脇には、急場しのぎの建物で徐々にいろんなお店の営業が始まっていた。その時期になると、みんなに復興の勢いがついてきていて、1週間で商店街の様子が変わっていく。以前は魚屋さんがあった辺りだけど、ひとつ筋を入ったところに、今日まで気づかなかった「中華料理店」をみつけて、暖簾をくぐると、「はえーい」と元気のよい声。はじめての声じゃなく、聞き覚えのある声!
だいぶ体重を落とされ細身になり、若返った印象の、アパート隣の食堂のおやじさんが再開した店だった。つい最近、ほんの1週間ほど前に開店したとのこと。神戸を去る前夜に、偶然、再会できたのだけれど、おかあさんもご無事、ご家族みんなご無事であるとわかり、この再会に感謝し、引っ越しの夜は、スペシャル!な、爽やかな夜になった。
あと書くのは、
Part 3/4 記憶力に自信があっても「記憶がなくなる時期」
Part 4/4 健康について「半年後にご用心」
の2つです。
“魔法とは、あなた自身を信じること”
あなたが気になる「偶然の不思議」を見つけられたら、その偶然は、なにか大事なことかもしれません。
偶然の発見は、「守られている」と実感する時。
10年という歳月をへて、今はつらくても、「偶然の発見」は、未来のあなたを美しい物語へと紡いでいくのだと信じています。
実はこの1週間、突然、10年ぶりに、陶芸家Dから頻繁に連絡が入るようになっている。なにか大きな転機がくる予感・・ もちろん、いい意味で!

# by comfortcook | 2011-06-12 15:39 | 震災について | Comments(0)

















